ブラックバイトで主張される責任論の妥当性
大学生にとって最も身近な労働形態であるアルバイト1 だが、近年、一部の劣悪な労働環境がブラックバイトと呼ばれ、社会問題視されている。
大学生が遭遇するブラックバイトは「非正規雇用労働の基幹労働者化が進む中で登場した。低賃金であるにも関わらず、正規雇用労働者並みの義務やノルマを課されるなど、学生生活に支障をきたすほどの重労働を強いられることが多い」2 と定義されている。学生が被る被害としては、単位を落としたり、留年や中退といった事態にまで発展することなどが挙げられる。一見するとこれらは断れば済む話のように思えるが、学費の上昇、仕送り額の減少、アルバイトのプレ就活としての位置づけなど、学生がアルバイトを辞めにくい環境的な様々な要因が存在し、「嫌なら辞めればいい」という自己責任論へと安易に帰することに疑問が投げかけられている。なかでも企業が学生バイトを職場に組み込む有効な手段として、過剰に責任感を煽る手法が先行研究によって明らかにされている3。具体的には、辞めたい・休みたいという学生に対し「「社会人としての自覚はないのか」「無責任じゃないか」「ほかのアルバイトの同僚たちも頑張ってるのに」「自分勝手だね」「ケツもてよ」などの言葉を浴びせ」3 、学生が「本物」の責任感をもつように仕向けるのである。すると学生と職場との一体化が進んでゆき、不本意ながら渋々従うどころか、お客様のため・同僚のためというように、自ら進んで過剰な仕事量を引き受けてしまうことさえある。
そこでこのレポートでは責任という概念に着目し、ブラックバイト職場が主張する先のような責任観・責任論が果たして妥当といえるのか、学生に限らず低賃金で働く労働者が負うべき責任とはどのようなものかについて考察する。
手法としては、まずブラックバイト職場の主張を一つの命題として整理し、次にそこに登場する言葉の意味についてそれぞれ吟味する。そのうえで、最後にその命題が真であると言えるのかについて検討する。
第一章 命題提起及び責任概念の前提
まず上記引用文の論旨を読み取ると、ブラックバイト職場は正社員と同様の重い責任こそを果たすべき責任であるとし、それを負わないような姿勢を非難しているようである。つまり主語を明確にし、主張を整理すると命題は以下の通りとなる。
① 〈「アルバイト(低賃金労働者)」は「重い責任のある仕事をする」〉は、真であるべきである。
では、責任の重い/軽い仕事とはいったいどのような仕事を指すのか。それは医者や政治家に代表されるように、その仕事の遂行如何によって、ある個人または集団の利益や損失に多大な影響を与えうる仕事だと言うことができるだろう4 。たとえば医者が手術を失敗すれば、この世で唯一無二の命という価値が不可逆的に、未来永劫失われる。政治家の働きが良いものであれば、その施策の恩恵を何万人もの人間が受けられ、社会全体の幸福は増大する。つまり、行為の後に引き起こされるだろう帰結が(利益にしろ損失にしろ)重大であればあるほど、その行為の「責任は重い」と評することができる。
ここで注意する必要があるのは、責任という概念は因果的決定論や自由意志論で理解すべきものではないということだ。因果的決定論とは、この宇宙で起こる全ての出来事を原因と結果の連鎖だとみなす考え方である。まず、あるAという結果が起きたとき、それを起こしたA´という原因がある。しかしこのA´が発生するためには更なる原因であるA´´があったことになり、さらにその前にはA´´の原因であるA´´´があったことになり……というように、ある時点の出来事の原因は、無限に遡ることができる。この論を採用すると、ある帰結の原因は行為者という単位をたやすくすり抜け、宇宙誕生の瞬間にまで求めることができてしまうのである。木からリンゴが落ちる、このときリンゴには落下した責任はない。しかしある男が殺意に駆られて銃の引き金を引き、放たれた銃弾が相手の頭に当たって命が絶たれる、このような場合には私たちは通常、男に責を問うことが可能だと考える。つまり責任とは、ある行為を「他のようにも振る舞い得た」ときにだけ成立する概念だといえる5。しかし因果的決定論では、原因と結果の連鎖は物理法則的に最初から決まっていたことであり、決して「他のようには振る舞い得なかった」とされるのである。行為に意志が介在しないとみる限り、その行為主体には責任がなくなり、どんな罪も罰も妥当たりえなくなる。
一方で、この「他のようにも振る舞い得た」という考え方は自由意志論と呼ばれる。「自由意志の下になされた行為だから、それに対して責任を負うと考えられて」6 いるからこそ刑法理念は成り立つ。では自由意志論のほうが全面的に正しいのかというと、一概にそうとも言えない。自由意志を想定すると、この世界の物理法則を超越した外部からの介入、つまり霊魂の実在を認めることと同義だという強力な反論を受けることになってしまう。
この二つの論はどちらが正しいのか、両立可能なのか、人間は自由な存在なのかといった議論は長い間続いてきた哲学的問題群である。
第二章 寄与と責任
それでは、責任はどのように捉えるのが最も矛盾がないのか。その考察を進める前に、今一度、責任の扱われ方について整理したい。
一般に責任の所在が問題となるときは、何らかの分配に関わるときである。またこのとき肝要なのは、ある出来事が起きた際に、その結果に誰がどれほどの割合で寄与していたかということである。アリストテレスの配分的正義では、ある配分が行われる際には、その配分は何らかの価値に則ってなされることが正義だとしている7。例えばある二人の人間が協力して100枚の金貨(配分されるもの)を得たとしたら、双方が妥当だと思えるような配分の仕方は、その成果に互いがどれだけ寄与していたかの割合に比例させることである。仮に、この場合の二人ともが同じくらい成果に寄与しているのに、一方が99枚の金貨を貰い、もう一方が1枚の金貨しか貰っていないといった場合には、誰もが不当だと感じるだろう。また、二人が共同で犯罪を行い、100の罪を分け合うといった場合にも同様のことがいえる。アリストテレスはこのような感覚を「議論なしでもすべての人に了解されること」7 だとして、正義の原則に適うものと位置付けている。だがしかし、なぜその分け方を人間は正しいと思ってしまうのかについてまでは触れられていない。
このように、人間社会を基礎づける原則は物理などの自然法則とは違い、根拠の元を辿っていくと必ずしも論理的・絶対的といえるものはなく、人間社会の感覚や感情といったものに由来しているのである。
そこで、責任概念を捉えるもう一つの見方がある。小坂井敏晶『責任という虚構』では以下のように述べられる。
「そもそも犯罪とはなにか。それは社会あるいは共同体に対する侮辱であり反逆に他ならない。社会秩序が破られると、それに対して社会の感情的反応が現れる。[……]そこで犯罪を象徴する対象が選ばれ、この犯罪のシンボルが破壊される儀式を通して共同体の秩序が回復される」。(191頁)(強調原著者)
「責任があるから罰せられるのではなく、逆に罰せられることが責任の本質をなす」。(192頁)
「自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、[……]論理的に要請される社会的虚構に他ならない」。(238頁)
つまり責任とは以下のような概念だと理解できる。まず社会のなかである出来事がなんらかの反響を起こすとき、安定した状態から不安定な状態へと移行する。次に、不安定な状態を解消するために、その起きた出来事に誰が、どれだけ寄与していたかを社会が事後的に想定し、罪にしろ報酬にしろ、相応しいものを、相応しい主体に分配する。そしてこの分配が相応しいと感じられたとき、はじめて社会は平静状態へと戻る。そして未来に起こるだろう出来事に責任をもつという行為は、このような事後想定の援用にすぎない。
つまり責任とは、行為主体者が担いうる能力や、現実として「他のようにも振る舞い得た」可能性を指すのではない。もっと正確にいうと責任とは、行為主体者が担いうる【だろうと社会が感ずるような】能力であり、「他のようにも振る舞い得た」【だろうと社会が感ずるような】可能性なのである。
このだろうという表現には、人間は責任を担いうる主体でなくてはならないという、社会の要請や願望が込められているといえる。
これらの議論を踏まえて、アリストテレスの分配的正義を仕事と報酬の関係に当てはめ、命題にすると次のようになる。
② 〈「責任の重い(利益や損失に多大な影響を与えるだろう)仕事をする」ならば、「(責任に比例した)高い報酬を得る」〉は、真であるべきである。
この最後の「べきである」という表現には、正義論が持つ理想の社会像が反映されている。社会の構成員が②の命題に同意できる限り、先に提起したブラックバイトが主張する命題
①〈「アルバイト(低賃金労働者)」は「重い責任のある仕事をする」〉は、真であるべきである。
は成り立たない。なぜなら②の対偶もまた真であるとすべきなら、①と矛盾するからである。
②の対偶
〈「(責任に比例した)高い報酬を得ない」ならば、「責任の重い(利益や損失に多大な影響を与えるだろう)仕事をしない」〉は、真であるべきである。
結論
最後に全体のまとめを述べる。責任とはそもそも、普段の生活で多用されるほどには分かり易くはない、なんとも捉え難い概念であった。
責任の概念が成り立つためには、本当に自由意志といえるものが存在するのかといった問題は、実はさほど重要ではない。責任は、ただ必要だから要請されるといった、ある種の社会的虚構だと理解できるのである。
そして、その虚構が支持される根本にあるのは必ずしも論理的といえない、頼りない人間の感覚であった。突き詰めると、人間が本来持っているこの感覚に適合するか否かが、主体が負うべき責任と負うべきでない責任との間に線を引くのである。
負うべきでない責任を退けるとき、その理由を明確に説明できないと、人はしばしば罪悪感を抱いてしまう。そして罪悪感は、人の行動を縛る強力な力をもつ。本稿で述べたような責任論理を自身の中で明確に区別しておくことは、自由な判断を下すうえで小さくない役割を占めるだろうと考える。
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1.独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)https://www.jasso.go.jp/about/statistics/gakusei_chosa/2016.html 2018/07/27/15:45
2.大内裕和『ブラックバイトに騙されるな!』2016年,集英社
3.大内裕和/今野 晴貴『ブラックバイト 体育会経済が日本を滅ぼす』2017年, 堀之内出版
4.大庭健『「責任」ってなに?』2005年,講談社,80ページ
5.同上42ページ
6.小坂井敏晶『責任という虚構』2008年,東京大学出版会,156ページ
7.アリストテレス『ニコマコス倫理学 西洋古典叢書』2002年,京都大学学術出版会 207ページ